第51章 ロボットが介護する都市
人が足りないのか。それとも、都市に欠けている層を人が埋め続けてきたのか。
フィジカルAI Summitの会場では、繰り返し高齢化の話が出た。
介護する人が足りない。病院で働く人が足りない。荷物を運ぶ人が足りない。
工場や建設現場で働く人が足りない。
だから、ロボットが必要になる。
説明は明快だった。少子高齢化が進む日本では、エッセンシャルワーカーの不足を人間だけで補うことはできない。フィジカルAIを搭載したロボットが、介護、医療、物流、製造、家庭へ入り、人間の代わりに身体を使う。2040年には、膨大な数のAIロボットが社会を支えているかもしれない。
けれども、話を聞きながら、別の問いが浮かんだ。
本当に、人が足りないのだろうか?
それとも、都市に欠けている何かを、これまで人間が自分の身体で埋め続けてきたのではないか。
高齢者が一人で病院へ行けないのは、その人の身体が弱くなったからだと考えられている。
しかし、病院までの途中には、駅の階段がある。長い乗り換え通路がある。短い青信号がある。座る場所のない歩道がある。受付にはタッチパネルがあり、診察が終われば離れた薬局まで移動しなければならない。
一つひとつは小さな不便に見える。
若い身体であれば、それらは不便としてさえ認識されない。しかし、歩く速度が少し遅くなり、膝が曲がりにくくなり、文字が見えにくくなったとき、それまで背景だった都市の構造が突然、障害物として姿を現す。
老いた身体は、都市の設計図を可視化する。
どこに段差があるのか。どこに休息がないのか。どこで時間が急かされるのか。
どの手続きが人間の記憶力を前提にしているのか。
誰が、都市の速度についていけないのか。
老いは、個人の能力が失われていく現象であるだけではない。
都市が、どのような身体を標準としてつくられてきたかを明らかにする現象でもある。
これまで、その不整合を埋めてきたのは人だった。
介護士が身体を支え、看護師が複雑な説明を繰り返し、家族が病院へ付き添った。配達員が重い荷物を玄関まで運び、店員がセルフレジの操作を助け、近所の人がゴミを集積所まで持っていった。
都市の制度には記録されない、小さな補助行為が無数に存在している。
それは介護サービスとも、公共事業とも呼ばれない。誰かが困っているのを見つけた人が、少しだけ時間を使い、自分の身体を差し出す。
人が足りないというとき、足りなくなっているのは、この補助行為を担う身体なのかもしれない。
だとすれば、ロボットは人間の代わりに介護をするために登場するのではない。
都市に欠けていた層を、初めて目に見えるかたちで埋めるために登場する。
中国では、人型ロボットが踊っている。
音楽に合わせて足を上げ、身体を回転させ、ときには人間よりも正確に隊列を揃える。その映像を見ると、ロボットはすでに完成しているように見える。
だが、介護する都市に必要なのは、踊れる身体だけではない。
廊下の途中で立ち止まった高齢者を見て、その人が疲れているのか、迷っているのか、助けを拒んでいるのかを判断しなければならない。
腕を差し出すことはできても、腕をつかんでよいとは限らない。
転倒を防ぐために行動を制限すれば、安全性は上がる。しかし、その人が自分で歩く自由は小さくなる。
薬を飲んでいないことを検知できても、飲むように強制してよいわけではない。
ロボットに必要なのは、動く能力だけではない。
止まる能力である。
判断を保留する能力である。
自分だけでは決めてはいけないと認識し、人間へ返す能力である。
ロボットは踊れる。
しかし、止まるべきときに止まれるだろうか?
高齢者を支えるフィジカルAIは、必ずしも人間の形をしている必要はない。
買い物袋を運ぶ小さな機械かもしれない。坂道を歩く人の速度に合わせて進むモビリティかもしれない。夜間に建物を巡回する装置かもしれない。転倒の可能性を検知し、遠くにいる家族や専門職へつなぐセンサーかもしれない。
あるいは、信号の青い時間を少し長くするシステムかもしれない。
エレベーターが、その人の歩く速度に合わせて扉を待たせることかもしれない。
ベンチ、トイレ、日陰、手すり、移動販売、配達、遠隔診療が互いにつながり、一人の生活を支えることかもしれない。
一体の万能ロボットが高齢者を介護するのではなく、都市の中に小さな支援機能が分散して存在する。
そう考えると、フィジカルAIは機械の名称ではなくなる。
それは、都市が人間の身体に応答するための新しい層になる。
ただし、何を機械に渡し、何を人間に残すのかは決めなければならない。
荷物の運搬、清掃、巡回、設備点検は自動化できるだろう。移乗、入浴、服薬、転倒時の対応には、人間の監督が必要になる。
本人が何を望んでいるかを聞くこと。
表情や沈黙から不安を感じ取ること。
痛みを言葉にできない人のそばにいること。
生き方や最期に関わる判断をともに引き受けること。
これらまで効率化の対象にしてよいのだろうか。
介護ロボットの価値は、介護士を何人減らせるかだけでは測れない。
ロボットが荷物を運ぶことで、介護士が五分長く高齢者の話を聞けたなら、その五分もロボットが生み出した価値である。
夜間巡回の一部を機械に任せることで、職員が異変のある人のそばにいられたなら、その時間も自動化の成果である。
問うべきなのは、人間の仕事をどれだけ消したかではない。
人間の時間を、何に戻すことができたかである。
高齢者は、新しい技術の巨大市場として語られる。
不足する介護人材。増え続ける医療費。拡大する見守り需要。
ロボットを導入する理由は、いくらでも並べることができる。
しかし、高齢者は市場ではない。
技術が適用される対象でもない。
その人たちは、都市の中で時間を重ね、都市の変化を見てきた住民である。かつて速く歩き、働き、家族を運び、誰かの不足を自分の身体で埋めてきた人でもある。
その身体が老いたとき、都市は初めて問い返される。
あなたは、若くなくても暮らせる場所なのか?
速く歩けなくても参加できるのか?
間違えても、忘れても、立ち止まっても、そこに居続けることができるのか?
未来の都市では、ロボットが高齢者を介護しているかもしれない。
だが、本当に必要なのは、ロボットが人間の不足を埋める都市ではない。
人間が長いあいだ身体で埋めてきた都市の欠落を、ロボットの存在によって発見し直すことである。
その欠落が見えたなら、すべてをロボットに任せる必要はない。道を変え、建物を変え、制度を変え、人の配置を変えることもできる。
ロボットを導入する前に、問わなければならない。
人が足りないのか?
それとも、人がいなければ成り立たないようにつくられた都市の方を、私たちは放置してきたのか?
ロボットが介護する都市とは、ロボットが人間の代わりになる都市ではない。
老いた身体が示してきた都市の欠落に、ようやく都市自身が応答し始める場所なのである。